29日 11月 2023
私は新聞広告を見て結婚相談所に入会した
私は35歳になり、このままでは結婚できないと考えた 私は新聞広告を見て結婚相談所に入会を決めました。 データマッチング型結婚相談所に入会しました。 サービスの1つは自分の情報や条件に合う相手のプロフィール、写真が毎月2名郵送されて来ます。 お見合いをしたいと思う相手であれば、お見合い希望を提出します。 しかし、相手にお見合いを断られることがあります。 もう一つは結婚相談所のオフィスに行って会員プロフィール、写真を見てお見合いを申込む方法です。 当時はインターネット、ホームページがまだ普及していませんでした。 結婚相談所が恵比寿にあったので福生市から1時間以上かかるため このサービスを受けることはありませんでした。
27日 11月 2023
私は35歳になり、婚活による結婚を意識し始めまた
今回は20年以上前、私が35歳になり、婚活を始めたときの話をします。 私は35歳になったとき、次のことを意識していました。 ・父親が結婚した35歳で私は結婚できなかった ・デートに二人で行ってくれる女性がいたが、交際を断られた  (好きな女性に振られた) ・女性と知り合う機会がなく、結婚する見込みがない そして35歳になったときに一人暮らしを始めます。 その理由の一つは婚活を始めるためでした。 なぜかと言うと私が入会した結婚相談所から毎月2名の女性会員プロフィールと写真が郵送されてくるためでした。 やはり親に結婚相談所に入ったことは知られたくない気持ちがありました。 そして、結婚相談所に入れば、1年後には結婚できると思っていました。
26日 11月 2023
私が30歳、父親は「いつ結婚するのか」と言い始めた
私たちは妹と弟の3人兄弟。 私が26歳の時、妹が結婚しました。 両親と同居していた私に父親は私の結婚について何も言いませんでした。 私が30歳を過ぎた時に父親は「いつ結婚するつもりか」と言い始めました。 私が33歳のとき、弟が結婚し、長男である私だけが未婚になってしまいました。 翌年正月、父親と一緒に飲んでいるときに「いつ結婚するつもりか」と言いました。 私が婚活仲人になって親御さんからご相談を受けるのは母親ばかりです。 しかし、我が家は母親から結婚について一言も言われたことはなく、父親に「結婚をしろ」と言われていました。 父親に「結婚をしろ」と言われていた私は父親が35歳でお見合い結婚したので35歳で私に結婚の見込みがなければ結婚相談所に入ってお見合いを始めるつもりでした。 (2000年当時、『婚活』と言う言葉はまだありませんでした)
25日 11月 2023
30歳で社会人スタートの父親は63歳まで会社勤務
父親は結婚後、翌年に長男(私)、翌々年に長女、6年後に次男が生まれました。 私が小学生の時に、父親が私に障がい者手帳を見せた記憶があります。 「この手帳があると電車の乗車券が半額で買える」と言っていました。 私が大人になって父親と行動をともにしているときに公共機関で障がい者手帳を利用している場面は見たことはありませんでした。 父親は補聴器をしていれば、日常生活の中で障がい者であることを感じさせませんでした。 30歳で社会人をスタートさせた父親は55歳の定年後も会社に勤務し、 63歳で退職しました。 その後、老人ホームなどにパートで勤務していました。 その頃、私は30歳を過ぎて独身。 父親から「いつ結婚するのか、何歳で結婚する気か」と言われ始めていました。
24日 11月 2023
身体障がい者(聴覚障害)と初めての面談
40代男性から婚活無料相談を希望の連絡がありました。 メッセージには聴覚障害があり、真剣交際に入ることができないとありました。 文末に「筆談で面談をお願いします」と書かれていました。 10年以上前に亡くなった私の父親は聴覚障害4級でした。 補聴器を付けている父親との会話で不便を感じたことはありませんでした。 父親の補聴器から出る「ピー」というハウリングのような音がうるさいと思っていました。 40代男性は私の名刺を受け取った後、筆談のボードを取り出し、 ボードにメッセージを書き始めて面談開始。 私がボードを読み、口頭で答えて40歳男性がボードに書く。 意外と筆談のボードを使えば、コミュニケーションを取れるものでした。1時間で面談終了。 現在、私以外に2つの結婚相談所の情報収集をして今所属している結婚相談所を変える検討している。 面談中、思い出したことが昔、父親がNHKの手話番組を見ていたことである。 手話ができれば、聴覚障害者ともっとスムーズにコミュニケーションが取れるかもしれないと思った。 帰宅後に手話についてGoogleで検索したが、手話を勉強する決心はついていない。
22日 11月 2023
父親は35歳で結婚、偉いのは父親を結婚相手に選んだ母親
東京で仕事をしていた父親に山口県在住の女性とのお見合い話があがりました。 父親は山口に戻り、今の母親とお見合いをします。 交際になり、父親は東京在住、母親は山口県在住の遠距離交際になります。 まだ新幹線がない時代、夜行列車で移動し、名古屋や大阪で数時間会う交際をしました。 父親の話では5回もデートしないで結婚を決めたと言っていました。 しかし、偉かったのは母親です。 父親は聴覚障害があり、肺結核の病歴がある。 そして結婚したら、親戚・知人・友人など知り合いが全くいない東京で生活することになる。 30年以上前、母親になぜ、父親と結婚したのか聞いたことがあります。 本当か嘘か分かりませんが「顔が良かったから」と言っていました。 当時、母親は29歳で適齢期を過ぎて結婚に焦っていたのかもしれませんが、普通、顔が良いので結婚相手の条件が良いと言えない父親と結婚するか… 父親は35歳で結婚することができました。 私は35歳から婚活を始めます。
21日 11月 2023
聴覚障害、大病した父親は30歳で社会人スタート
父親は22歳で聴覚障害2級(当時)を取得し、28歳で病院を退院。 30歳のとき、地元山口県を離れて東京に転居します。 知人の紹介で中小企業の音響メーカーに入社するためで入社したときは総務部配属と聞いています。 当然、補聴器を使用しての勤務であったと思います。 父親は「昔の補聴器は大きかった」と言っていました。 入社時は、お金がないので大きい補聴器をつけて仕事をしていたのかもしれません。 なぜ、東京の中小企業が聴覚に障害があり、社会経験が全くない、しかも30歳男性を採用したか疑問があります。 昭和35年(1960年)障害者雇用促進法の施行が関係していた可能性はあります。 30歳で社会人スタートし、当然結婚には縁がなかったでしょう。 厚生労働省「人口動態統計」によると昭和35年の平均初婚年齢は男性27歳でした。 社会人5年目、35歳のとき、親戚からお見合いの話があり父親はお見合いをすることになります。
17日 11月 2023
父親は死を覚悟する日々の青春時代を過ごす
父親は聴覚障害を持ちながらも健常者と同じ生活をして 旧制中学を卒業し、17歳で旧制高等工業学校に進学します。 「終戦後で食料が十分になかった」と父親は言っていました。 18歳のときに不治の病「肺結核」に感染します。 学校は除籍になり、赤十字病院🏥に入院します。 当時は抗生物質💊がなく、22歳の時には 肺にできた空洞をつぶす目的で肋骨を切除する手術をしました。 一緒に生活をしていた患者仲間が一人亡くなり、また亡くなり、死と隣り合わせの10年間、闘病生活を送ります。 病院🏥を退院したのが28歳、社会復帰したのが29歳でした。 聴覚障害があるだけでなく、服を着ていれば見えませんが、身体の一部が欠損し、社会経験が全くない青年でした。
16日 11月 2023
父親は中耳炎で聴覚障害に、今なら病状は悪化しないはず…
父親は幼少期に中耳炎にかかり聴覚に障害を持つようになりました。 父親が亡くなる直前、聴覚障害の話を聞いたことがありました。 私の父親は障がい者手帳を取得したときは聴覚障害(当時2級)でした。 中耳炎発症が戦前で抗生物質のない、補聴器🦻もない時代。 今であれば障害になるほど中耳炎の病状が悪化することなく、学校🏫の教室で最前列に座ったり、聴覚障害でいじめに合うこともなかったのかもしれない。 戦前は柔道🥋、終戦直後の旧制中学では野球⚾をして 聴覚に障害がありながら、健常者とほとんど同じ生活をしていました。 しかし、18歳のときに死を意識する病が襲います。
15日 11月 2023
聴覚障害者の父親が結婚をあきらめていた私に結婚の扉を開いた
末期がんで聴覚障害者の父親が「俺はしぶとく生きる」と 親戚たちの前で宣言したのが15年前。 そのときの生きることをあきらめない父親の姿勢に私も「結婚をあきらめない」と決心し、2回目の婚活を開始。 父親が亡くなった1年後に結婚した。 聴覚障害を持つ父親はお見合い結婚💒であった。 私も結婚相談所を利用してお見合い結婚💒 身体に障がいを持っていることで 結婚をあきらめる方が多数いると思います。 身体に障がいを持つ人で結婚したい人は結婚をあきらめないこと。 まずは「婚活をしましょう」 そして「新しい人生を歩み始めましょう」 今日から結婚💒を目指しましょう。